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創業1900年 江夏商事の歩み

創業者 故江夏芳太郎卿と遺訓

仏教の信仰深かった両親のもとに生まれた創業者の江夏芳太郎翁は、
それ以上にまた信仰深く自らの体験に基づく處世十訓を残しました。
處世十訓

若くして商才発揮

江夏芳太郎は、明治7年(1874)7月、計佐吉の三男として西町に生まれました。
8、9歳のころから学校に通う傍ら、母親のつくった飴を外の小売店に配ったり、魚・野菜の触れ売り(商品をかつぎ、声を出して売って歩くこと)をしたりしました。
芳太郎は、小学校の初等科を一番で卒業しましたが、病気のため進学はあきらめました。その後は、昼間は店を手伝い、夜は読書に時間を費やしました。
14歳の時、芳太郎は商売の勉強のため、鹿児島に行っておりました。ある日、芳太郎は、海が荒れたため、前夜大漁で値段が大きく値下がりした鰤を大量に買い占めました。そして、危険を冒して都城(福山までは船)に送り、大きな利益を上げて大人たちを驚かせました。

米穀商となる

芳太郎は、26歳で独立して倉の馬場(現上町)に店を構えて米穀商となり、米の品質改良と市場での米価向上を強く訴えました。なぜなら、明治維新以降、宮崎県のお米は品質が落ち、明治30年代には「粗悪劣等」というレッテルを貼られ、値段も低く設定されていたからです。芳太郎はとてもくやしい思いをしました。そこで、日向米の名声をなんとか高めようと決意しました。
芳太郎は、「日向米の品質を高めるために県営検査を実施すべきだ」と主張しました。芳太郎の意見は県会でも取り上げられ、有吉知事のとき県営米穀検査(※1)が実施されました。このような努力がみのり、大正10年(1921)には日向米の評価が高まり、各県産米優劣番付で小結の地位を獲得するまでになりました。

観光に尽力

大正15年1月、子どもが亡くなり、その忌明け記念として母智丘に桜を千本寄贈し、母智丘神社の参道をつくって両側に植付けました。
また、昭和2年(1927)6月に「国立公園法」というきまりができたとき、霧島連山が候補地になりました。そのとき、芳太郎は、百回以上登っている霧島連山を国立公園にするため、自分のお金で写真帖『霧島』をつくり、それを関係するところに配りました。こうした芳太郎らの努力がみのり、昭和9年、「瀬戸内海」、「雲仙」とともに「霧島」はわが国最初の国立公園に指定されました。

さらに芳太郎は、関之尾滝があまり知られていないことに嘆き、庄内町役場に交渉し、道路改修などの協力を行っています。
また、昭和4年、都城商工会議所が創立されると芳太郎は、初代会頭に選ばれ、15年の間その職を務めました。そして、昭和27年4月、都城市で開かれた九州産業振興博覧会に際し、産業功労者として表彰されました。
芳太郎は、昭和29年11月に79歳で亡くなりました。

※1
明治32年(1899)に各郡に米商同業組合が設置され、これを連合した宮崎県米商同業組合連合会が、県の補助を受けて、輸出(移出)米検査を行っています。
※2
明治維新後に大規模なものが三回ありますが、ふつうは大正7年に富山県魚津町での騒動をきっかけに、ほぼ全国に広がった騒動をさします。
【参考にした本】
  • 都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 近現代』(都城市 2006.6)
  • 宮崎県編『宮崎県史 通史編 近・現代1』(宮崎県 2000.5)
  • 瀬戸山計佐儀著『都城北諸県 社会福祉史』(都城市社会福祉協議会 1971.9)
  • 江夏昇他編『花のトンネル 江夏芳太郎“思い出の記”』(江夏安栄事務所 1982.8)

江夏家系図

母智丘神社までの参道は、桜並木が約2km続きます。
1927年(昭和2年)に次男 真二(当社2代目社長)の結婚を記念し、母智丘神社の参道にサクラ1000本を寄贈し、母智丘神社の参道をつくって両側に植え付けました。
昭和のはじめごろの江夏芳太郎商店

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